本を買う・大学の役割
昨日はジュンク堂に本を買いに行き、
久々に本屋でのんびりと本を探せました。
ジュンク堂には、
今書いている論文と博士論文のために読みたかった本を買いに行ったのですが、
いつものことで、買おうと思ってなかった本もついつい面白そうで買ってしまいました(^_^;)
学部の時にお世話になっていた教育社会学の先生も
「本屋に行くとついつい関係ない本買っちゃうんだよなぁ」
とこぼされていたのを思い出します(笑)
購入書籍一覧
「グローバリゼーションと文化変容」遠藤薫(編)、世界思想社
「三層モラルコンフリクトとオルトエリート」遠藤薫、勁草書房
「日本近世における聖なる熱狂と社会変動」遠藤薫、勁草書房
「フラット・カルチャー」遠藤知巳(編)、せりか書房
昨日買ったばかりなので、まだちゃんと読んでませんが、
立ち読みレベルでは、とても参考になる本ばかりです。
特に「面白いなぁ」と思ったのは
「フラットカルチャー」
この面白さ、っていうのは、自分の研究につながるかとか、
そういう部分ではなく(いや、つながるんだけども、そこが中心ではなく)
これからの研究者による書物っていうことを考える上での面白さ。
札幌CGM都市宣言でご一緒させていただいているNPO法人北海道冒険芸術出版の堀さんとも
いつもお話させていただいているのだけれども、
どうやって出版社や研究者、ひいては大学や大学院の存在意義を訴えていくのか、
ということをとても考えさせられました。
この間、堀さんとお話していて、盛り上がったのが
紀伊国屋書店から出版された「東京スタディーズ」(吉見俊哉・若林幹夫 編著)
まず装丁が良い。単純にかっこいい。手に取りたくなる。
純粋には専門書ではないかもしれませんが、
一般の方にとっては、小難しい事の書いてある本であると思います。
「専門書なら中身だろ?装丁とかいうやつは浮ついてる」
まぁ、そんな意見もあるかもしれません。
逆に、人に到達されない中身に意味はあるか?
と問い返したいですね。
そういったコミュニケーションの怠慢の積み重ねが大学を腐らせてるように思いますが、
まぁ、それは別の話。
今回購入した「フラットカルチャー」も、
とても魅力的な表紙で、中身もとても面白いのです。
著者は「東京スタディーズ」の方々とかぶっている部分もあるので、
出版社は違いますが、そういったノウハウはいかされてるのかもしれません。
カフェ、ユニクロ、ショッピングセンター、ファーストフード・ファミレス、
ネットカフェ、東京、自動車、IT企業、カリスマ・セレブ・イケメン、大学教育、
スピリチュアル、J-POP、クラシック音楽、アート、ヴィレッジ・ヴァンガード、
カルチャーセンター、検定、世界遺産、デザイン、ノスタルジア、ライトノベル、
家族イメージ、子供への視線、子供文化と大人、教育産業、建築とブランド、タワーマンション、
お笑い、ググれカス、動画/二次創作、フラッシュモブ、やおいとBL、ツンデレ、ケータイ、ポップ広告、
マスコミと言論、ネット言論、コンプライアンス、政治、「社会と個人」の現代的編成、社会学/「社会学」
と多岐にわたるテーマ。興味をそそられます。
本は読んでもらってなんぼ、ではないか?
講義は聞いてもらってなんぼ、ではないか?
最近、研究者の世界でも「社会還元」が特に言われています。
研究の成果を社会に還元するのです。
以前は専門的な論文を執筆するということが第一義でした。
今でもそれは変わりませんし、論文に残す、ということは、
たとえそれが流通しなくても、保存と継承ということで意味がある。
ただ、最近はそれだけでは無くて、
フォーラムやシンポジウム、書籍などにして
広く一般の方々に知ってもらう、ということが重要視されています。
個人的には、一般の方にお読みいただくことを考えても、
学生さんの知的好奇心を喚起する意味でも、
専門書のハードルをいろんな意味で下げるべきだと思っています。
特に観光研究では。
当ブログでもよく書いてますが、アニメに関する研究をやろうと
指導教員に相談すると、
「とにかくそんな浮ついたものはやめろ」
という先生がいらっしゃるとのことです。
正直、信じられないのですが…。
教育者としても、学生が興味を持って取り組もうとしていることに対して、
明確な理由を示さずにやめろという意味が分からないし、
研究者としても、今の日本社会を見渡して「アニメなんてくだらないものを
研究対象にするなどもってのほか」みたいな考えを持てる感覚が分からない。
もしかしたら教育上の深い理由があるのかもしれませんが、
大学生には活き活きと大学生活を送ってもらいたい。
学生さんが「こういうことをやりたい」と言ったら、
「じゃあ一体その「やりたいこと」の面白みはどこにあると思う?」
などを問いかけ、学生さんが「おもしろい」と思ったことの本質を
一緒に掘り起こしていって、研究につなげるのがむしろ指導教員の役割では?
「あれはだめ」「これはだめ」「私の言うテーマをやれ」…。
先生方、
お言葉にショックを受けて、私のところにヘルプのメールをしてくれる学生さんが
たくさんいらっしゃるんですが…。
私は嬉しいですけど、これって大学でやるべきことでは?
こんなことを繰り返していては、大学が愛想をつかされる
(実際、もうつかされはじめてるんだよな)。
本に金をはたく、大学に金をはたくってことが、
「無駄」ではない。
そんな社会を作りたい。
そのためには、情報を発信する側の努力が求められる。
学生さん(社会人も含め)が興味を持って「これは面白い!この大学で学んでみたい!」
そういう風に思ってもらえるようなパフォーマンスをしていきたい。
これは学生に「媚びる」ってことじゃない。
「入口」を広くして、そこから「本気」になってもらうためなんだ。
久々に本屋でのんびりと本を探せました。
ジュンク堂には、
今書いている論文と博士論文のために読みたかった本を買いに行ったのですが、
いつものことで、買おうと思ってなかった本もついつい面白そうで買ってしまいました(^_^;)
学部の時にお世話になっていた教育社会学の先生も
「本屋に行くとついつい関係ない本買っちゃうんだよなぁ」
とこぼされていたのを思い出します(笑)
購入書籍一覧
「グローバリゼーションと文化変容」遠藤薫(編)、世界思想社
「三層モラルコンフリクトとオルトエリート」遠藤薫、勁草書房
「日本近世における聖なる熱狂と社会変動」遠藤薫、勁草書房
「フラット・カルチャー」遠藤知巳(編)、せりか書房
昨日買ったばかりなので、まだちゃんと読んでませんが、
立ち読みレベルでは、とても参考になる本ばかりです。
特に「面白いなぁ」と思ったのは
「フラットカルチャー」
この面白さ、っていうのは、自分の研究につながるかとか、
そういう部分ではなく(いや、つながるんだけども、そこが中心ではなく)
これからの研究者による書物っていうことを考える上での面白さ。
札幌CGM都市宣言でご一緒させていただいているNPO法人北海道冒険芸術出版の堀さんとも
いつもお話させていただいているのだけれども、
どうやって出版社や研究者、ひいては大学や大学院の存在意義を訴えていくのか、
ということをとても考えさせられました。
この間、堀さんとお話していて、盛り上がったのが
紀伊国屋書店から出版された「東京スタディーズ」(吉見俊哉・若林幹夫 編著)
まず装丁が良い。単純にかっこいい。手に取りたくなる。
純粋には専門書ではないかもしれませんが、
一般の方にとっては、小難しい事の書いてある本であると思います。
「専門書なら中身だろ?装丁とかいうやつは浮ついてる」
まぁ、そんな意見もあるかもしれません。
逆に、人に到達されない中身に意味はあるか?
と問い返したいですね。
そういったコミュニケーションの怠慢の積み重ねが大学を腐らせてるように思いますが、
まぁ、それは別の話。
今回購入した「フラットカルチャー」も、
とても魅力的な表紙で、中身もとても面白いのです。
著者は「東京スタディーズ」の方々とかぶっている部分もあるので、
出版社は違いますが、そういったノウハウはいかされてるのかもしれません。
カフェ、ユニクロ、ショッピングセンター、ファーストフード・ファミレス、
ネットカフェ、東京、自動車、IT企業、カリスマ・セレブ・イケメン、大学教育、
スピリチュアル、J-POP、クラシック音楽、アート、ヴィレッジ・ヴァンガード、
カルチャーセンター、検定、世界遺産、デザイン、ノスタルジア、ライトノベル、
家族イメージ、子供への視線、子供文化と大人、教育産業、建築とブランド、タワーマンション、
お笑い、ググれカス、動画/二次創作、フラッシュモブ、やおいとBL、ツンデレ、ケータイ、ポップ広告、
マスコミと言論、ネット言論、コンプライアンス、政治、「社会と個人」の現代的編成、社会学/「社会学」
と多岐にわたるテーマ。興味をそそられます。
本は読んでもらってなんぼ、ではないか?
講義は聞いてもらってなんぼ、ではないか?
最近、研究者の世界でも「社会還元」が特に言われています。
研究の成果を社会に還元するのです。
以前は専門的な論文を執筆するということが第一義でした。
今でもそれは変わりませんし、論文に残す、ということは、
たとえそれが流通しなくても、保存と継承ということで意味がある。
ただ、最近はそれだけでは無くて、
フォーラムやシンポジウム、書籍などにして
広く一般の方々に知ってもらう、ということが重要視されています。
個人的には、一般の方にお読みいただくことを考えても、
学生さんの知的好奇心を喚起する意味でも、
専門書のハードルをいろんな意味で下げるべきだと思っています。
特に観光研究では。
当ブログでもよく書いてますが、アニメに関する研究をやろうと
指導教員に相談すると、
「とにかくそんな浮ついたものはやめろ」
という先生がいらっしゃるとのことです。
正直、信じられないのですが…。
教育者としても、学生が興味を持って取り組もうとしていることに対して、
明確な理由を示さずにやめろという意味が分からないし、
研究者としても、今の日本社会を見渡して「アニメなんてくだらないものを
研究対象にするなどもってのほか」みたいな考えを持てる感覚が分からない。
もしかしたら教育上の深い理由があるのかもしれませんが、
大学生には活き活きと大学生活を送ってもらいたい。
学生さんが「こういうことをやりたい」と言ったら、
「じゃあ一体その「やりたいこと」の面白みはどこにあると思う?」
などを問いかけ、学生さんが「おもしろい」と思ったことの本質を
一緒に掘り起こしていって、研究につなげるのがむしろ指導教員の役割では?
「あれはだめ」「これはだめ」「私の言うテーマをやれ」…。
先生方、
お言葉にショックを受けて、私のところにヘルプのメールをしてくれる学生さんが
たくさんいらっしゃるんですが…。
私は嬉しいですけど、これって大学でやるべきことでは?
こんなことを繰り返していては、大学が愛想をつかされる
(実際、もうつかされはじめてるんだよな)。
本に金をはたく、大学に金をはたくってことが、
「無駄」ではない。
そんな社会を作りたい。
そのためには、情報を発信する側の努力が求められる。
学生さん(社会人も含め)が興味を持って「これは面白い!この大学で学んでみたい!」
そういう風に思ってもらえるようなパフォーマンスをしていきたい。
これは学生に「媚びる」ってことじゃない。
「入口」を広くして、そこから「本気」になってもらうためなんだ。
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